廃墟への再訪
 


   廃墟の味というものを私はよく知っている。
 生臭い、ぴりぴりとした不思議な味だ。
 そこにはたしかに今まで生活していたであろう爪痕がある。例えばキッチン。夕食の匂い。母親の笑顔。テンプレートだがそんなもの。
 爪痕は記憶。そこにあったものを指し示す。
 そもそも爪痕とはどういう意味か。辞書を引いたことがある。「爪でかいた傷あと」という意味と「天災や戦争などが残した被害や影響」という意味を持つのだという。
 ようするにすべての人は傷ついている。
 例えば猫に引っかかれて、痛い思いをしたことがあるとする。私も幼い頃、野良猫に水を引っ掛けたせいで引っかかれたことがある。それはもう、立派な爪痕だ。
 例えばいじめられて、心に大きな傷を負ってしまったとする。それもまた、立派な爪痕だ。
 私は知っているのだ。誰もが皆、何かの爪痕を抱えていると。でも、誰もが皆、自分の爪痕を他人に見せたがらない。
 隣で笑っているあの子も、私の好きなあの人も、きっと爪痕を持っている。なのに、どうして私にはわからないのか。不思議でならない。
 
 
 学校が早く終わって、コンビニで買ったパンと紙パックのジュースを持って私とアキちゃんは学校の裏山を目指す。
 空が気持ち悪いほど晴れていて、日焼け止めを塗るのを忘れたことを後悔する。
 裏山はちょっとしたハイキングコースみたいになっていて、綺麗に道が整備されている。だけどコンクリとかじゃなくて、ちょっとした登山道みたいに土の感触は消えていない。
 私はこういう所にいちいち感動してしまう。それをアキちゃんに言うと「おばあさんみたい」と息を切らしながらいひひと笑う。
「その笑い方気持ち悪いよー。だいたいアキちゃんだって息切らしちゃってさ、じゅうぶんおばあさんみたいだよ」
 と私は息を切らしながら言う。私たちは現代人、運動不足、頭が働かない、じゅうぶんおばあさんだ。
 アキちゃんは短く結んだツインテールを汗でちょびっとだけ濡らしながらまたいひひと笑う。五月も始まったばかりだというのに、やけに熱くて、紙パックが水滴でビショビショになって、ビニール袋の表面も一緒に濡れる。それを揺らしながら歩くから、そこから飛んだ水滴が私の足に着地するのだ。
 それがなんとも、気持ちいい。
 不思議だ。
 私はまだ十七歳で、なにも知らない。
 私の知っていること。 
 私はこの裏山が嫌いだ。
 嫌な思い出と嫌な思い出で占拠されている。その思い出は武装している。私の心は武器を持っていない。


 夕方の六時と言ったら夏はまだ日が沈んでなくて冬は暗闇の切込隊長。今は後者。
 私とチョロぴーは暗闇の中を歩く。
 夜の山を歩いている気分は落ち武者狩りから逃げる落ち武者。私たちは見えない何かから逃げていた。
 チョロぴーは私に見せたいものがあると言って裏山に連れだしたが、この馬鹿みたいに寒い時期に何を考えているんだと思った反面、クラスでも静かで目立たなくてアキちゃんが密かに思いを寄せているというぐらいの認識しかなかったチョロQ大好きチョロぴーからの誘いに、私は好奇心を見にまとって食いついた。
 でも、寒いのに外はやだなあと言う私の考えは裏山に入ってから十分ぐらいで消し去られて、今の私はハァハァと息を切らしている。熱い。運動不足とは時に暖を取ることすら出来るのだ。
「ガッタン大丈夫?」
 私を連れて行くことに夢中で先を歩いていたチョロぴーが立ち止まって言う。見上げても顔は見えない。ちょっと不安だ。
「運動不足だから、ちょっと大丈夫じゃない」
「ごめんね」
 チョロぴーは悲しそうに言う。どうして原因を作った奴が結果に涙するんだろう。
「謝るんだったら帰っちゃうよ」
「それは、困る」
 普段のチョロぴーからは想像できないほどクリアで強い思いを込めた言葉を聞く。そして意外性というものは困ったもので、私をドキッとさせる。
 そして、この声を知っているのも私がドキドキしているのも、私しか知らないという事実が私の心に爪を立てるのだ。
「……だったら気にしなくていいから、早く行こう」
 歩く速度は違うのに、気持ちの速さだけが揃った気がして、ちょっとだけ足が軽くなる。
 それから十分ぐらいして、私とチョロぴーは山頂にたどり着く。普段だったら十五分ぐらいで登れるよと余裕の表情でいうチョロぴーの頬を軽く叩いて、私は小さな展望台のベンチに座る。
 小さな小さな山のくせに、展望台だけやけに立派で腹が立つ。二階建てで、一階の部分にはちょっとした照明と自動販売機がある。駐車場もあって、車でも来れるんだということを知る。そう考えるとなぜか感動が薄らぐ。
 ちょっと汗ばむ私に、目の前に立ったままのチョロぴーが学生鞄からタオルを取り出して、それを差し出す。
「汗拭かないと、風邪引いちゃうよ」
 なんだこいつ気が利くなあとか思いながらも、本人はまったく汗をかいていないのでもしや私が汗をかくことを想定していたんじゃないかと思うとなんだかムカムカとしてくる。そっぽを向いてタオルを受け取りながら、自動販売機の紅茶花伝が気になったので、あったかいそれをすすりつつ、私は言う。
「ここ、車でも来れるみたいだね」
「うん」
 即答する。
「知ってるよ。学校の反対側から行けるんだ。あのコンビニのとこから。真横に道があるでしょう? あの道、住宅街抜けるとここに繋がってるの」
 私はいつもの通学路を思い出しながら、語られる風景を想像する。
「じゃあどうして学校から行ったの? 道が安定しなくて疲れたよ」
 私は疑問を素直に口にする。
 ここに案内したかったというのなら、舗装された道のほうが多少遠回りでも疲れなかったんじゃないかというクズの発想だ。
「……明るい道は恥ずかしかったから」
 チョロぴーは少し休符を詰め込んでから言う。六時だというのにここには人が私とチョロぴーしか居なくて、まるで世界が終わったみたいだなと一瞬思ってから、自分が気持ち悪くなる。
「チョロぴーのほうが恥ずかしいよ」
 と私は言って、また沈黙が訪れる。すこし汚れの目立った蛍光灯が、やけに眩しかった。
「見せたいものって何?」
「ごめん、言い訳だった」
 と言いながら私を見るので、その空気に流されてしまう。そのあとのことは覚えてない。覚えてないのだ。
 
 
 私とアキちゃんの足だと山頂につくのに三十分以上かかった。ここに来るのは二度目で、一緒に来る人と季節が違うだけでここまで変わるものなのかと思った。
 展望台の上で紙パックのミルクティーを飲みながら、私とアキちゃんはしゃべりだす。ベンチからでも海が見えて、ここってやっぱり海に近いんだなあと思う。
「私、フラれちゃった」
 アキちゃんはツインテールを濡らしながら、メロンパンを頬張って言う。
 私は何も言えない。私の爪痕が反応する。
「誰に?」
 それでも言う。すべてを知りながら、私は言うのだ。
「チョロぴー」
「へえ、アキちゃんって、チョロぴー好きだったんだ、なんか意外」
 ミルクティーをすする。甘い匂いと、生臭い魚の匂いが混ざる。海からの風が痛い。
「一年の頃から、ずっと好きだったんだよー。誰にも言ってなかったけど」
「アキちゃんを振るなんて、チョロぴーもどうかしてるね。チョロQ好きすぎて人間には興味ないのかな」
 と私は乾いた笑いを汗でビッショビショに濡らしてごまかしながら言う。
「チョロぴー、好きな人にフラれたんだって。でも、諦められないんだって」
「へえ」
 この痛みは記憶の痛み。誰もが皆か抱えている。だけど互いには分かり合えない。そういう痛みなのだ。
「アキちゃんはどうするの?」
「うん。私も諦めないよ。私も諦めなくていい? って言ったらチョロぴー笑ってた。変わってるね、だって」
 諦めてくれればいいのに、と私は思う。そうすれば、私の痛みは少しずつ消えていって、いつか忘れる。
 でも、誰もそれを許さない。
 風が吹いて、アキちゃんの髪の毛は揺れる。私の長い髪の毛は、顔にべったり張り付いて前が見えなくなる。
 前が見えなくなる。
「ねえガッタン」
「なーに?」
「エッチって、したことある?」
「どうしてそんなこと急に聞くの?」
「いやーいまどきの「じぇいけい」はみんなしてるらしくてね」
「……アキちゃんは?」
「あるわけないじゃん」
「わたしも、あるわけないよ」


 そうだ。この痛みは心の廃墟。
 ここは心の廃墟。私の廃れた世界。ここにはかつて記憶があった。
 良い記憶? 
 悪い記憶?
 誰かに嘘をついて、誰かの爪痕を撫でて生きる世界。
 それは私の爪痕。後ろめたさと、痛みとで出来た廃墟。ここにはきれいな思い出と生臭い匂いしかしない。
「うそつき」
 アキちゃんは大きく笑う。
 ちょっとだけ懐かしい綺麗で腐った血の匂いがしたが、もう風に吹かれて消えていた。


人を騙してるから気持ちいいんじゃなくて人に騙されてるから気持いいんだと思います。


一覧へ。
TOPへ。

inserted by FC2 system